
これは「秀人」とは根本的に次元が違う。まずスキル面では、後者は資格検定試験の結果にフォーカスし、かつそれで自分の英語力を証明しようとするのに対して、前者は資格取得(3冠〜5冠)は当たり前のこととし、超人的な努力によって自分の母国語と英語の運用力のギャップをなくそうとする。故にInput,
Output の量が「秀人」とはけた違いである。全国にいわゆる「達人」が100人ぐらいいるのではないかと思われる。full-fledgedな「達人」の場合は、教養あるネイティブのレベルとの比較で英語力を判断し研鑽を積むため、まずリーディングに関しては洋書換算で楽に3000冊以上は読破しており、洋画やラリーキングライブでもシャドウイングしながらエンジョイでき、語彙も2〜3万語は楽に使いこなし、ライティングに関してもエッセイ換算で3000ページ以上は書いており、一般のネイティブの英文をチェックできるぐらい完全な自信を有し、スピーキングに関しても、社会問題のアーギュメントにおいて一般の日本人の日本語での発信力をはるかに上回る、つまり180WPM以上のスピードでひきしまったレトリカルな英語で斬れるアーギュメントができるといった具合で、世相への洞察や学識に欠け、平易な英語を表面的な流暢さで話すレベルとは数段の違いがある。また英語への造詣の深さもけたが違い、英語学習者のどんな質問にも答えられる「生き字引的存在」でもある。
次に「達人」は、CQ(創造性、想像性)のレベルがまるで違う。「秀人」は所詮「凡人」の延長にあるために、考え方が型にはまりやすく、イノベイティブな要素が非常に乏しいが、真の「達人」というのは、いわゆる「守・破・離」のプロセスを経ており、教材であれ、プログラムであれ、論文であれ、常に新たなものをクリエートできる存在である。剣の世界で言えば、「柳生流」とかのように剣法・流派を生み出し、かつ名をはせているような状態である。
最後に、「達人」は人間や社会の洞察が深く、人生を達観し、それに基づく独自の「人生・教育哲学」を有し、かつそれに賛同者がおり、それを普及できる人物であるということである。つまり単なるスキルUPのためのインストラクターではなく、英語の勉強を通じて人間を磨き、人を自己実現へと導いて行けるメンター的存在である。そして何よりも「達人」は子弟を「達人」へと鼓舞することができるが、「秀人」は「秀人」までしか駆り立てることができない。
最近は軽い意味で「達人」という言葉がよく使われているが、真の意味での「達人」とはもっと含蓄のあるもので、一般の人が見えないものを洞察でき、カリスマ性を備えた、いわゆる超能力者(ESPER)とも言える。しかし、「達人」になるまでの道があまりにも苛烈なために、その意味では、俗世間を「絶人(たつじん) 」とも言える存在である。
「達人」へのアドバイスは、「英語」というスキルではなく、キャラクターやクリエイティビティや独創性などで勝負せよということである。日本で英語がいくらできても、英語圏の大学機関などへ行くと、よくて「凡庸」、大体は「ごみ」レベルぐらいにしかならない。英語の達人を目指して15年以上英語と格闘し、日本でノンネイティブを相手に頂点を極めたとばかり調子に乗っていると、英語圏の研究機関で絶望のどん底に陥る可能性がある。しかしそこで埋没せず、そこから這い上がり、頭角を現せしめるものは、英語のスキルではなく、日本人のアイデンティティー(サムライスピリット)を活かした独創性、そしてマルチカルチャルな視野(perspective)と、genderを超える一流芸術家の感性を有する”philosophartist(哲学芸術家)”の資質である。そして何よりも独自のeducational
philosophy(教育哲学)を確立することが重要である。
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